第6回コラム

☆若かりし日の海外出張の思い出と40年経った今思うこと ☆

1973年(S48年)第2回電子工学科卒 田中恒夫

~ はじめに ~

私は大阪の大手通信建設会社に入社し、子会社社長等を経て46年間勤め上げて一昨年完全リタイアした。会社は通信事業者発注の電話工事請負会社で、電子工学とは無縁であったが幅広い技術・管理の求められる建設工事を通じて、海外出張を含めて極めて貴重な人生経験ができた。基礎訓練終了後すぐに電話局内工事部門に配属され、電話加入急増期の大量工事に忙殺された。その後入社7年目に海外事業部へ異動になった。会社の海外工事は通信工事業界トップの実績を誇っていたが、電話局内工事担当は私一人だった。工事受注営業から派遣者の人選、渡航手続き、後方支援や帰国処理まで幅広く、現場工事とは異なってストレスのたまる業務だった。毎週のように東京の取引先へ日帰出張を繰り返し、海外事業部に在籍した11年間に世界中の60数ヶ国へ延べ600人以上の技術者を送り出した。派遣者が決まらない場合には自ら海外出張した。派遣者からの報告と自身の計1年半4回の海外出張を体験したことで視野は広がり、国内では感じることのなかった日本の世界に誇る様々な先進的躍動を目の当りにした。

~ 初めての海外出張 ~

私の初めての出張は、南米のチリ共和国の電子交換機工事だった。

南北6,000km以上の細長い国土の中ほどにある首都サンチャゴから北へ800km、アンデス山脈中央部の世界で最も乾いた大地アタカマ砂漠の中に世界最大の露天掘り銅山がある。そこから採掘された銅鉱石の積出港であり、南回帰線上に位置する小都市が私の最初の海外現場だった。「雨は確か7年程前にパラパラと降ったかな」と現地チリ人の言うとおり私の滞在8か月間に一度も雨は降らなかった。その港町の東側に広がる砂漠地帯は草木の全くない荒廃地だった。一帯の山々は、全て鉱石採掘によって3合目あたりから上がり取られて平らになった異様な光景だった。採掘現場はまるで大きな噴火口で、その中の遥か遠くにコマツの大型掘削機と巨大トラックが動き回っていた。思わず同行の現地人運転手に「あれは日本製だ」と自慢した。市街地ではTOYOTAやDATSUNの小型トラックが走り回り、日本産業界の健闘を目の当たりにして誇らし気分になった。持参したソニー製ウオークマンの精巧なメカニズムと音質の良さは、多くのチリ人達の羨望の的だった。地球の裏側南米の田舎町では当時の日本は遥か彼方のおとぎ話の国だったが、多くのチリ人は日本がどこにあるかさえ知らなかった。彼らが小ばかにする“チノ(=チャイニーズ)”と違って“ハポネス(=ジャパニーズ)”は尊敬の的だった。毎晩食事するレストランの4年生の女の子が「日本はどこ?」と持ってきた教科書の地図は南北逆さまで南極が上になっていた。北海道が“えぞ”と書かれていたが、さすがに“えど”ではなく“とうきょう”だった。“おおさか”がなかったので地図に書き込んでやり、「日本で2番目の大都会だ」と教えてやったら「明日学校で発表する」と嬉しそうに笑った。日本人が友達であることがその子の自慢で、いつしか私のスペイン語の先生になっていた。“中南米の3C”と呼ばれるコスタリカ、コロンビ、チリの3か国は美人が多いことで有名だが、その小学生の可愛らしい笑顔は近い将来の3Cを予感させた。モンゴロイドとスペイン系の混血であるチリの娘たちは本当に可愛かった。

チリへは成田からニューヨーク経由で首都サンチャゴまで40数時間の長旅だった。初渡航の私には託送されたダンボール27箱の資材がJFK国際空港のトランジットで全数通過したかどうか確認する余裕などなかった。

工事現場では10名程の現地人を使って作業させるのだが、全く英語が通じないのに苦労した。メキシコ以南の中南米はブラジル(ポルトガル語)以外全てスペイン語圏で、ホテルもレストランも英語は通用しなかった。持参した小さな和西・西和辞書と耳で覚えたスペイン語と日本語に身振り手振りの全身言語でを駆使して何とか仕事の意思疎通ができるようになって行った。

チリで思い出す笑い話は沢山あるがそのいくつかを並べてみる。

  • 田舎町に到着して仕事初日の昼休みに町から忽然と人が消えてクーデターかと驚いた(ラテン系の昼休憩は3時間もあり皆自宅へ帰って昼食することを夕方知らされた)。
  • 通勤途中のキオスクでタバコを1カートン買ったら店のおじさんが「ムーチャ・グラシャス!(どうもありがとう)」と嬉しそうに言いながら店を閉めた(タバコはばら売りが当たり前で1カートンは2日分の売上らしい。翌日からすっかり友達にされた)。
  • ワインがおいしく安いので毎週5リットル瓶を買って帰っていた(今でもチリワインしか買わない)。
  • 私が日本人であることを知った近所の老人が「セニョール・ヒロヒトは元気か」と親しそうに話しかけてきた(昔日本はチリと軍備の協力関係があったそうで彼は昭和天皇を尊敬していた)。
  • 休日に家の前でキャッチボールをしていると大勢の見物客が集まってきて、捕球のたびに大きな喝采が起こった(サッカーオンリーの南米では野球を見たことのない人たちがほとんどだった)。
  • 電話局のオペレーターさん達がイースター島観光の積立をしていたので私も仲間に入れてもらおうと全額1,000米ドルを先払いした(後で局長さんに知られて「女性だけの中に外国人男性は困る」と丁重にお断りされた)。

等々、懐かしい思い出が次々と浮かんで来る。

2か月の出張予定が結果8か月となった帰国路のロサンゼルスのトランジットでは「Yes」ではなく思わず「Si」(スペイン語のYes)が口に出て一人苦笑した。

帰国した翌朝、出勤の駅に向かう私の背中へ3歳になったばかりの我が娘がベランダから「パパー!」と大きな声で呼ぶ。振り返って手を振るとかん高い声で「また来てねー!」と言う。きっと昨夜は知らないおじさんがやって来たと思っていたのだろうが、パパ、パパとまつわりつく2才上のお兄ちゃんを見て怪しい者ではないことは感じていたのか。少なくとも8か月前のパパの出発時のことは娘の記憶から完全に消えていた。これ以降“入園前の子供がいないこと”が、3か月以上の出張者人選の際の“技術や経験”よりも重要である、と私の内規に追加した。

~ その他の海外 ~

その後の2回はデジタル交換機工事アドバイザー業務のアメリカ出張だった。日本人は誰も知らないアメリカ中央部の広大な穀倉地帯ネブラスカ州(着陸する飛行機から見えた無数の巨大な円形は、大型スプリンクラーが回りながら散水する部分だけが耕地である半径50m程の畑だった)と、五大湖南の自動車産業が色濃く、貿易摩擦による対日感情のあまりよくないオハイオ州だった。オハイオでは-16℉(=-27℃)の極寒の中の車通勤も体験した。アメリカのスーパーマーケットで目にする気の利いた日用品などはことごとく“made in Japan”だった。

最後の出張は35才の時、世界で唯一赤道上に首都を持つ南米エクアドルのデジタル交換機工事だった。首都キト市は、標高2,900mの高地にあり赤道ながら年間平均気温13℃という快適な気候だった反面、平地の7割の空気の薄さが日本人達を苦しめた。売上1.5億円の大型プロジェクトだったが、私は立上げ期3か月の順調な進捗を見極めて現地を後にした。エクアドルでも様々な出来事があったが、現地人仲間達が計画してくれた休日のアンデス山脈5.800m高峰の中腹4,900mにある山小屋での焼肉パーティー登山の息苦しさ(気圧は平地の55%)が強く印象に残っている。後に中年登山を始めて北アルプスの3,000m峰のほとんどを登った私には、あの山小屋からあと高度100m頑張って5,000mの地を踏めば良かったと小さな後悔が残る。又ガラパゴス島に行かなかったことももう一つの残念なことだ。日本に招待されたことのある客先電々職員の「日本の高層ビルも、時刻通りの新幹線も素晴らしい。だが今のエクアドルには日本の正確な天気予報のような文明が欲しい」という尊敬の念を込めた声が今も耳に残る。

~ 終わりに ~

後年2006年に大阪商工会議所情報・通信部会主催の11日間の“アジアIT事情視察”に参加し、バンコク、ホーチミン、香港と中国広東省深圳を訪問した。各国企業とも若者が日本に追いつき追い越せと意欲的に取組んでいた。特に深圳市に広大な敷地の本社を持つ近年問題話題の多い通信機メーカは、当時、創立僅か10余年で日本の最大手通信機器メーカを凌ぐ売上を上げていた。対応してくれた役員の一人は「明日東京へ無線通信機器日本初取引の報道発表に行く」と意気込んでいた。その短期間での激烈な技術発展と事業拡大は、この数年来西側諸国の言うルール違反疑惑よるものではなかろうか。現在さらに拡大し続ける中国の圧倒的な勢いとバイタリティーには大きな脅威を感じる。これらは私の南米出張当時、日本・韓国料理屋はつぶれても中華料理屋は決してつぶれない中国人商売のしぶとさが今もそのまま継続しているからかも知れない。

この2年間の新型コロナ騒動で露呈した日本の医学のみならずあらゆる分野の立ち遅れは、過去のアメリカに次ぐ世界第2位の経済・技術大国であった日本からは想像もつかない悲惨な凋落である。が、これらは我々団塊の世代が当時の日本の勢いを次代に引き継げなかった反省すべき結果なのかもしれない。今の日本人は自国の現状に目が向いていないのか見ようとしないのか、何も感じないのか。世界には見習うべき分野は多いのだが・・・

少子高齢、原発抑制、カーボンニュートラル等々課題山積の今、30~40年前の日本躍進の時代とは質の異なる今の時代に合った日本の再構築、再発展と世界への貢献に向かって若い現役の皆さんの奮起を信じたい。

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