第7回コラム


鳥取大学工学部とケニアとの交流

副井 裕

はじめに

鳥取大学工学部創設時代を知る者としての責務があると勝手に考えて、思い付くままを書き綴ってみる。1966年(昭和41年)4月鳥取市立川町の兵舎跡地に建つ校舎に赴任、当時の三浦百重学長から文部教官助手の辞令を頂いた。工学部教員には機械工学科に藤本教授、電気工学科に大島教授のお二人だけが在籍であった。同年7月には工学部校舎も一部完成し、湖山町の現在地に学芸学部、農学部と統合移転したのである。

2022年(令和4年)のゴールデンウィークの一夜、昭和41年入学で電気工学科の卒業生二人と鳥取市のとある料理屋で、友情の酒を酌み交わした。私も昭和41年4月に鳥取大学へ赴任したので、まさに同期の桜の再会のような形となった。お二人とも沖縄と東京(のちに鳥取県)在住ながら、母校教員の私と長年にわたり継続的によくお付き合い頂いたと思う。鳥取大学時代の思い出は卒業生のみなさんとの交流が最も大きな部分を占めるが、今回は元同僚の先生方とケニアを訪問したことと、ケニアからの留学生との交流について触れてみたい。

ケニアへ

2010年3月の終わりごろ福岡市に住む親友齋藤皓彦先生(元鳥取大学電気電子工学科、のちに福岡女学院大学学長)から「今年の夏にケニアへ行きませんか。これが私にとって最後のケニア訪問となるかもしれません!」と誘いの電話がかかってきた。齋藤先生は1984年鳥取大学とケニアのジョモ・ケニヤッタ農工大学(JKUAT)の国際協力プロジェクトが始まった時に、最初にケニアへ派遣された先生であり、その後も首都ナイロビで工学関係の国際会議開催も推進されている。私も日本政府の「ケニア共和国JKUATプロジェクト」に1984年から2000年まで関わり、短期専門家として現地へでかけたり、JKUATの先生方を留学生として受け入れたり、JKUAT支援国内委員会委員を務めたりして10度以上ケニアを訪問した経験があった。日本政府の援助が終了する直前の2000年2月に「JKUATプロジェクト最終評価調査団」の一員としてケニアへ行ったのが最後であり、すでに10年以上の空白があった。私は万難を排して今回の旅に参加することにした。元工学部機械系教員で、その後鹿児島大学教授に転出された田辺先生、齋藤先生の福岡女学院大学での同僚の先生1名も合流され、4人がケニアで一緒に行動することになった。

 

国際会議

久し振りに降り立ったジョモ・ケニヤッタ国際空港も空港から市内へ向かう道路周辺も10年前とあまり変わりがないと言うのが第一印象であり、見慣れた光景の中をナイロビ市内へ向かった。私どもが参加する国際会議が開催されるマルチメディア大学(MMU)は、日本のNTTが技術協力をして出来た情報通信系の大学である。広大な敷地の中にはホテルだけではなく国際会議場、食堂、プール、サウナなどもあり、ナイロビ国立公園に隣接しているせいか、キャンパス内でヒヒやイボイノシシの群れをみることができた。

2日間開催された国際会議「KSEEE/JSAEM 2010 International Engineering Conference」(齋藤先生が創設に関わり、サポートを続けている14回目の国際会議で、鳥取大学で修士号を取得したMMU工学部長のKonditi先生が実行委員長、JSAEM(日本AEM学会))に出席した。国際会議へはケニアからはもちろんのこと日本(8名)、イタリア、南ア、タンザニア、ナイジェリアなどからを含め約50名の参加者があった。

開会のあいさつの後、齋藤先生がケニア電気電子学会(KSEEE)設立の経緯や本国際会議の歴史・意義等について、約1時間講演を行った。

1日目の昼食会でのことである。同席した南アからの参加者が話しかけて来て、私のことを知っているという。名前を聞いて私も彼をすぐに思い出した。彼は元JKUAT教員で、私がお世話して琉球大学で学び、修士・博士号を取得したのであった。今は南アの大学で教授として活躍しているという。このような出会い・再会も学会参加の楽しみである。懇親会はMMU内のプールサイドで開催され、南アから招いたバンドの生演奏つきで、楽しい会話と心地良い夜風を楽しみながらケニアの夜は更けるのであった。

 

サファリ

マサイマラ国立保護区(N.R.)へ1泊2日でサファリに出かけた。このN.R.はタンザニアのセレンゲティ国立公園との間で130万頭ものヌーの大群が草を求めて移動することやライオンが多いことで有名である。私はこれまでマサイマラだけではなくアンボセリ、ツァボ、ナクル、ケニア山、ナイロビ、アバデアなどの国立公園(N.P.)やN.R.を訪れ、多くの野生動物を見たことがあった。

今回初めてナイロビからマサイマラまでプロペラ飛行機で行った。車では5-6時間かかるところをわずか40分のフライトで草原の中の空港(未舗装で小屋とトイレがあるだけ)に着陸したのであった。空港までホテルの車に迎えに来てもらい、シマウマやヌーなどポピュラーな動物を見ながらホテル着いた。

夕方3時間および次の日早朝から約6時間のサファリでヒョウ、ヌー、シマウマ、バッファロー、イーランド、インパラ、クロコダイル、チータ、カバ、ライオン、ハイエナ、象、キリン、ガゼル、イボイノシシ、トピ、ストック、など多くの野生動物を見ることが出来た。その上チータの狩りの様子やライオンの交接シーンなども目撃することが出来たが、残念ながらサイの姿を見ることは出来なかった。

弱肉強食の世界の厳しさ、自然の摂理の尊さを再認識したサファリであった。

 

JKUAT再訪

JKUATはナイロビの北東36キロのところにあり、日本の国際協力(ODA)でケニアの農業・工業の発展に資する中堅技術者を養成するための教育機関として1981年に開学した。1988年にはKenyatta University傘下の大学となり, 1994年には完全に独立した大学へ昇格した。2000年まで日本の協力が続き、この間高専レベルから非常に評価の高い理系総合大学へと成長した。1984年以降鳥取大学工学部、農学部の教員が長期・短期専門家および外務省・JICAのJKUAT プロジェクト国内委員会委員および調査団メンバーとして多数JKUATへ派遣された。またJICA研修員、文科省国費留学生および鳥取YMCA給費留学生として延べ90名以上のJKUAT教員および技術職員を鳥取大学へ受け入れて来た。

2010年現在JKUATはケニアで最難関の大学の一つであり、農工にとどまらず文系も含む学生数約2万人の総合大学に急成長した。本部キャンパス以外にも4キャンパスあり、隣国タンザニアにも新キャンパスの開設が計画されている。また傘下に4工科系大学を擁しており、それらの大学の学長はJKUATから派遣されている。

2000年3月日本政府のJKUATプロジェクトが終了し、JKUATの運営は人的にも資金的にも完全にケニア側に任された。その後、JKUATプロジェクトの成果を生かしてJKUAT学内にアフリカ諸国への人材開発拠点(AICAD)が設立され、AICADへ日本政府は引き続き援助を行っている。

今回10年ぶりにJKUATを訪問したが、木々が大きくなり学生も多くなって、学内に活気がみなぎっている印象を受けた。キャンパス内では木々の下のベンチで読書・勉学に励む学生の姿が散見された。日本の大学では少なくなった姿なので非常に新鮮な光景であった。またJKUATのキャンパス周辺は大きく変わり、建築中を含め3-5階建ての学生マンションが林立している。

そして鳥取大学で修士・博士の学位取得された先生方が大活躍し、産業省次官、他大学学長、工学部長等、重要ポストに就いている。JKUAT工学部は3学部を擁するCollege of Engineering and Technology(学内の工科大学)へ昇格し、機械・材料系工学部長や電気系工学部長に鳥取大学で学位取得の先生方が就任している。また私の研究室で修士号を取得し、その後イギリスやケニアの大学で博士号を取得した先生方もベテラン教員として活躍している。彼らと再会し、昼食を食べながらあるいは夕刻にニャマチョマ(焼肉)を食べながらタスカーやホワイトキャップなどのケニアビールを飲んで至福の時を過ごしたのである。

私にとって10年ぶりのケニア訪問であったが、教育の成果は時間が経過してからこのような形で出てくるのだということを実感した意義深い旅であった。

 

なお日本政府のジョモ・ケニヤッタ農工大学プロジェクトについては、鳥取大学の貢献を含め次の書籍に詳しく紹介されている。

参考文献:荒木光弥著「アフリカに大学を作ったサムライたち ジョモ・ケニヤッタ農工大学物語」、国際開発ジャーナル社、2014年1月。

 

鳥取大学で学んだ先生方と昼食会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥取大学で学んだ先生方と昼食会

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