第4回コラム


THE REMAINS OF THE ONCE

吉田和行

 前任の鷲見会長より 2008 年(平成 20 年)に引き継ぎ就任しま した湖鳥会の会長を、この度、山根新会長へ引継ぎました。今後 山根会長のもと湖鳥会のさらなる発展を祈念いたします。

12 年間に渡る会長就任中、伝統ある湖鳥会会員の皆様、教職員 の皆様、在校生の皆様、また理事・事務局の皆様に一方ならぬご 支援、ご指導頂きましたこと忠心より御礼申し上げます。有難う ございました。

1989 年(平成元年)に電気工学科と電子工学科の合併改組があ り、1992 年(平成 4 年)電気電子工学科同窓会として湖鳥会が諸 先輩のご努力により発足しました。

平成 16 年には、国立大学法人法が施行され新しく国立大学法人 鳥取大学の設立となりました。就任期間中 2015 年(平成 27 年)4 月 1 日には工学部改組により、知能情報工学科同窓会である湖情 会との合併が実施でき、国立大学法人、鳥取大学工学部、 電気情報系学科の同窓会として現在の新生拡大「湖鳥会」が発足 し現在に至っています。

就任期間中の湖鳥会活動として定例理事会、総会に加え

    • “旧友と母校の再会 in Osaka” の複数回開催
    • “旧友と母校の再会 In Tokyo” の複数回開催
    • “湖鳥会 Home Coming Day in Tottori の複数回開催
    • “湖鳥会 学科創立 50 周年同窓会 in Tottori 2019 年(令和元年 8 月)
    • “湖鳥会 学科創立 50 周年同窓会 in Tokyo 2019 年(令和元年 12 月)
    • “学費援助奨学金の新設
    • “国際会議海外渡航費用助成制度の改定

等が思い出されます。

なかでも4部構成で開催しました、2011 年 11 月 12 日の Home Coming Day In Tottori では、第 4 部の“鳥取でカニを食べよう” との楽しい企画で、夕刻、参加者一同網代港近くの会場に集結し 松葉ガニを大いに食べ、語り、盛り上がったことが思い出され ます。

一昨年(2020 年)年初より猛威を振るうコロナ感染症禍により、 国民の多くの活動が制限されています。2019 年(平成元年)12 月 開催の学科創立 50 周年記念東京同窓会は東京霞ヶ関にての開催で、 まさにコロナ禍直前でしたが、好天にも恵まれ好機開催で、大い に旧・級友の交わりができました。

以来 2 年以上続くコロナ禍が早急に克服され、生活活動制限が 緩和され、コロナ疲れが癒され、日常に戻れること祈るばかりで す。

湖鳥会は現在、旧三学科合わせた卒業生、在校生、教職員で 構成される、大所帯になり大いなる発展が期待されます。

今後とも湖鳥会会員の皆様の母校への思いと、湖鳥会へのお心 掛けを祈念申しあげるしだいです。

卒業後、ようやく職に就くや否や、仕事に追われ、また海外で の勤務も永く大学とは没交渉の状態が約 30 年以上続きましたが、 少しずつ、大学との繋がりが出来てきました。

多くの方々より頂いたご厚情による、身に余る広がりもありま した。

* 全くの無より始めた部活での尺八演奏、 苦楽を共にした 邦楽友の会の同窓会が皆生温泉で開催され、懐かし過ぎる 邦友との再開

* 鳥取大学海外戦略アドバイザー就任、セミナー開催

* 「知と実践の融合」を標榜する鳥取大学副学長 岸田悟教授との対談、「今、求められる人間力」 (鳥取大学機関紙 風紋 26 号 掲載)、

* 鳥取大学非常勤講師(客員教授)として近年実業で事業 経営に携わった、CDMA 携帯電話、GPS ナビゲーション、 シリコン太陽電池セル、のシステム概説、産業構造の変化 とこれから、海外事情、体験など産業科学特別講座開講 等で、お世話になった多くの皆様に感謝いたします。

ご多分にもれず、今私は、健康維持が最大関心事の毎日ですが、 54 年前に鳥取大学入学・卒業の頃より、後期高齢者寸前の今まで の人生を振返れば、少し特異なものとして、長期にわたる欧米両 大陸での駐在生活体験があると思います。

大学入学時には、今では想像すらできない、あの全国で大荒れ となった学生運動が最大局面となりました。鳥取大学本部棟も 占拠破壊され、学生生活にも大いに影響がありました。 また卒業時はオイルショックで就職難、間もなくトイレットペ ーパーが店頭消え、生活必需品の買占め、奪い合いが横行する、 騒然の世でした。

一年後運よく地元の電機メーカーに就職でき、一年間の各工場、 各部門での実習を経て、会社人間に育てられました。

販売実習は“電気のカホ”長崎店で 3 ヶ月、ここで活動してい た、さだまさしのグレープが、このとき東京へと巣立ってゆきま した。

回路設計部門に配属され、数年後商品企画担当となり、OEM 製品 が所属事業部門の主力であったため、製品企画と海外バイヤーと の接点が主戦場となり、海外出張が多くなりました。

韓国、中国の台頭はまだ見受けられない頃です。

海外出張に出始めたころ、世界最大の家電展示会、CES は貴重な 仕事場であり厳しいながらも楽しみの場でした。会場も、シカゴ、 ラスベガスと夏冬の交互開催よりラスベガスに定着、出展家電の カテゴリーが大幅に増加し、規模・参加企業・人場者数とも拡大 の一途を辿りました。ヨーロッパではベルリン、ハノーバーメッ セなどが特筆されます。

当時、本社との通信はままならず、ある時、顧客より簡単な図 面を受け取ったものの、日本への転送手段が無く困っていると、 ホテルマンより郵便局で図面が送れると聞きました。

さっそく当日深夜ラスベガスダウンタウンの郵便局に行くと、 それはビール瓶ほどの筒の表面に図面を張り付け、エジソンの蓄 音機のように回転に合わせセンサーを移動させる脅威のマシンで した。

後日自社でも FAX が開発され事業化されたのは言うまでもあり ません。

主力の OEM 製品は欧米大手との取引が大きく「顧客要望対応」 が最重要業務でした。ついに出張ではなくヨーロッパ駐在が始ま り、更に途中2年の国内勤務を経て次は北米駐在となりました。

まさに,ヨーロッパ、北米を駆けずりまわる仕事でした。

最初の駐在地ヨーロッパでは国内との交信は鑽孔テープの、い わゆる機械式テレックスで、高額な電話交信は重大事のみの許可 制でした。今のインターネット、Eメールの世界とはまさに雲泥 の差です。

ドイツではで電機大手との取引が大きく、大学教養課程でドイ ツ語選択するも頭に入らず、永沼先生の神対応を受け、追試に よりようやく学部に進級できたこと思い出し、真面目に勉強して おけば良かったと反省の毎日でした。

米国駐在が始まり、商談でシアトルのマイクロソフト本社訪問 時まだ開発中の Windows95 の初期試作ディスクを入手し使ってい た頃が私にとって、インターネット、E メールの黎明期でした。

欧州から北米への移住体験により、米国の衣食住、生活手段、 文化、町の名前、パンの形に至るまでの多くが、ヨーロッパを起 源としていること、またこの国は、世界史で学んだ、あのメイフ ラワー号に代表される、移民がルーツの新しい国だと実感した次 第です。

結局駐在は、ヨーロッパ 3 都市、北米 2 都市で長年の海外生活 となり、授かった子供 3 人の出生国がそれぞれ異なり、文字通り 国際家族もどきとなりました。

子供達は、私の故郷での生活実態がほとんど無く、残念ながら 今日現在、海外を含め離れ離れの生活しており、それぞれの心の 故郷はどこなのか、まだ確認出来ていません。

1980年代の安定成長期、ジャパン アズ ナンバーワンと評 され始めた日本が絶頂期へと向かうのに多くの時間はかからず、 その後、米国駐在を開始した私でも“私は日本人”と胸を張りた くなる時もありましたが、政治家の発言によるものか、玄関ドア に生卵を投げつけられるとか、日本国外製品との熾烈なコスト 競争など、概ね多難な時代でした。

プラザ合意による強制的大幅な円切り上げを見事に克服できた のは、真摯な活動と緻密な技による、日本の底力からの賜物であ ったのでしょう。

止まることのない対米貿易摩擦、繊維・鉄鋼・自動車・テレビ・ 半導体など、次々と貿易不均衡問題が激化したころ、米国シリコ ンバレーの大型ホテルの各部屋で米国半導体メーカーが待ち構え、 日系企業人、駐在員がそのホテルに集まり、各部屋を廻り半導体 の売り込みを受けるなど、不均衡解消への取り組みがなされたこ と、今では思い出となってしまった日米関係でした。 自社開発で商談中の、日本製セルラーフォン(CDMA 携帯電話) に対し 50%近い関税が突然発表され、米国 Cellular Telephone Industry Association (CTIA) トップを、藁をも掴む思いで 単独訪問した頃の衝撃は忘れられません。

一方、90 年代初頭より、日本の GDP は 500 兆円強より 30 年後 の今も停滞しており、個人の平均所得も同様にほとんど伸びず、 デフレが続いています。いま、米国はもとより、2 倍から 5 倍増の 国が多く、先の衆院選での各党の主張は分配がキャッチフレーズ でした。どうして日本だけが伸びなかったのか。

これは企業責任か、もとより、大いに政治にも頼らざるを得ず、 なぜ?どうすれば?と思案するも、経済成長に失敗した日本と、 悔やんでも、やはり詮無きものかと思いを巡らせるこの頃です。

こんな思いで、最近、毎日の多様なメディア、報道に接するに つけ、日本国民の世界意識を私なりにシンプルな言葉にすれば、 日本国民は、“世界に於ける国家感が希薄”であると思わざるを得 ません。

グローバルが叫ばれ数十年、現在では日本の海外での優位性が 薄れてきた為か、海外(グローバル)志向の人が少なくなったと 感じています。企業でも海外駐在志向者は少なくなったとのこと。

国家感とは「世界の中の日本」「世界との日本」をまず考える ことです。30 年間所得は伸びずともなんとなく無事に平和に生活 できている昨今、珍しくも不可解な外国の文化、社会とまみえる 必然が感じられないからかもしれません。

私が、最初西ドイツに居を構えるに当り、まさかの日本国警察 発行、無犯罪証明書と、両手指 10 本分の指紋写しの提出を当局 より要求され、厳重に封印されたもの持参提出しました。

米国は移民大国であるものの、日本人に限らず合法的な外国人 の永住(長期居住)、国籍取得は大変困難です。

通常のビザは健全な受入れ先が絶対条件で、あのグリーンカー ドもビザの一種で更新が頼りで、国籍取得ではなく、投票権や一 部の公職に就くこともできません。 多かれ少なかれ、欧米いずれの国でも外国人に対する門戸に 大いなる制限を設け厳しい管理が為されています。

その国家にて大衆の利益と欲望に応える為の資本経済、政治的 利益を優先する、まさにポピュリズム、もしくはナショナリズム に基づく厳重管理が現実なのです。

叫ばれ続けたグローバル化とポピュリズム/ナシオナリズムと の擦り合わせが困難な世界が目の前にあるといえるのでしょう。

厳しい外国での入管事情に比べ、近年日本では、外国よりの 入国者に対する諸問題がクローズアップされているなか、入国者 に対する実態把握が手薄な日本が垣間見えます。

外国人人権擁護論との鬩ぎあいは、避けられないものの、生産 年齢人口減少の今こそ、経済、国力維持のためにも早急に入国 外国人実態把握強化したうえでの入国管理、入国者管理の必要性 を強く感じるものです。

憲法で謳われているように、争を先んじる国家であってはなら ないものの、政治/経済的に日本の現状、立ち位置、安全と利益を 考える場、つまり「国家感」を考える機会を得、多くの国民が 「国家感」を体現、醸成されんこと希望するものです。

敢えてゆえば、海外を体験することによって “自国を考え思う” ことも有効です。

対外的な安全保障/経済安保などは性善説を唱え、遺憾砲を投げ 続けるだけでは得られないでしょう、現実、現場、現物での覚醒 が望まれます。

コロナ禍で中断していますが、今も私はサラリーマン卒業後、 機会を見つけ、日本と目的地往復航空券と着地のホテルのみ確保 し、外地で広範囲な自由きままな一人旅を楽しんでいます。前日 に明日の行動を決め、まさにBSのふれあい街あるき、トラムの 旅などです。

まだ自由に動けたコロナ禍直前、ウイーン着で思いつくまま 無計画に旅し、まさかのポーランドクラクフの負の人間世界遺産 と言われる、あのアウシュビッツ・ビルケナウへ足を延ばし、足 の向くまま中東欧近隣5カ国を訪ねてきました。

意外な地で日本国旗のひらめきを見つけたときの、少なからず の喜び、安堵感は心地よいものです。 湖鳥会で実施の、国際会議海外渡航費用助成制度がうまく利用 され、学生諸氏に「国家感」を身近に感じる絶好のチャンスとし てこれを受け止めて貰えれば、と期待します。

4 年前の年末、私たちE43 同窓生は鳥取の浜村温泉で同窓会を 開き、諸先生も含め、半世紀、50 年ぶりの再会を喜びあい、夜は 松葉ガニを味わい、大いに飲み語り、翌朝湖山キャンパスに移動、 大学院棟が新設された学び舎構内などを散策しました。

在学時代には無かった、正門より見えるおおきな時計棟に歓迎 され、また工学部前庭の欅の幹の太さに驚きながら、長寿と再会 を約束しました。

湖鳥会会員の皆様、時間を見つけて鳥取大学を訪ねてみようで はありませんか。新発見が必ずありますよ!

THE REMAINS OF THE ONCE(あのひとときの名残り)

2022 年(令和 4 年)1 月  吉田和行

 

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